○政府委員(古橋浦四郎君) 終戰直前の昭和十九年には六万二百九十三名になつておりましたのですが、二十年の暮になりますとそれが四万二千に減りました。これは当時終戰の直後或る程度仮釈放で出されたためだと思います。それ以前におきましては、大体五万人台が平均でございます。簡單に申上げますると、昭和六年が四万七千、それから昭和七年から昭和十三年までは五万人台でございます。
○石原(幹)政府委員 昭和二十二年末をもつていわゆる正式な集団引揚げは終了したのでありますが、ただいま残存しておるかどうか、神保さんも神様でなければはつきりした数字はわからぬとおつしやつたのでありますが、これは途中から投降をいたしましたり、あるいは終戰直前に山の中に入つて変名しておつたり、こちらでまつたくつかみ得ないものが山をおりて町に出て来たとかどうとかいうことで初めて判明した、こういう人が若干名
なお南方諸地域からもその後アナタハンの兵士のごとく若干の者が帰国し、現在もフイリツピンのルバング島には、なお三名の日本兵が残存しておる模様でありますが、これら南方諸地域に残存しておる者は、元軍人、軍閥で、終戰直前、或いは直後離隊逃亡して或いは山中に隠れ、或いは変名して現地人になりすまし、潜つておつたものでありまして、これらについては山を降つて町へ出没するとか、或いは留守宅と連絡しない限り日本側においても
本県における甘藷の栽培は、九州各県中福岡県と共に最近最も飛躍的に増大して、戰前に比べて大体二倍に達し、昭和二十六年度における作付面積は八千町歩余、收穫高二千七百五十万貫余でありますが、澱粉業は先進県である鹿兒島県に見られるような古い歴史はなく、戰時中僅かに一工場を数えるに過ぎなかつたのでありますが、終戰直前農林省の奬励、助成によつて増設せられ、昭和二十六年における澱粉工場十工場、原料甘藷消化力一千万貫
○政府委員(西村熊雄君) さような無法な状態にあるわけではございませんので、台湾、澎湖島が中国軍によつて占領され、南樺太、千島がソ連郡に占領されるにつきましては、終戰直前の連合国間の話合いの結果、各担当地区に連合国軍隊が入つております。必ずしも事実上の状態ではなくて、話合いの結果成立した状態でございます。
特にこの中には、終戰直前ちよつと戰争の仲間入りをしただけで、あの莫大な財産を持ち去つたソビエト、このソビエトのごときは、今私が申し上げる連合国の中に一体入るか入らぬか。これは平和條約の條文によれば、調印をしない限りは、連合国とは言い得ないはずであります。しからば、将来この持ち去つた財産に対する請求権が、日本にあるのかどうか。この財産をどうすべきかという問題が一つ。
併しながら他の委員からも御質問がございました通り、終戰直前までは、終戰後もそうでございましたが、外地に日本全体の目が向けられておつたというような関係があり、終戰直後はその惰性もございまして、遺憾ながら閣議決定の線に沿うた国の拓殖事業費をオーバーに北海道に支出して飛躍的に北海道の開発を行うということができがたかつた次第でございます。
それから終戰直前から大蔵省にこれが切りかえられて、その後終戰後も引続きこの特例がそのまま残されておる現状において、第一線の加入運動というものに非常に支障を来しておるということは、大臣も御承知だろうと思うのです。
またその間終戰直前の混乱状態で、戰災の機械台数も不明瞭でございました。また会社側におきましても、やはり同様の状態におきまして、混乱の際で書類を紛失した、あるいはこの機械は全国各地に散在いたしておりますし、またこれを把握すべき官庁機構も非常に弱体であつたというようなことで、かように整理が遅れたのでございます。
これにつきまして、当時戰争中に、中立国を通じて日本政府からアメリカ政府に交渉をいたしましたところが、アメリカ政府の方は、自分の方に責任があるという意向を通達して参りまして、それによりまして、終戰直前にやはり中立国を通じまして、日本政府から損害賠償を請求いたしておるのであります。
殊に大きな因子として分りませんのは、例の終戰直前に、在満同胞を召集して、各種の部隊を作りました。
○竹村委員 もう一つ聞いておきたいのでありますか、終戰直前、六月あるいは七月ころに、いろいろな形において関東軍か南方に転進しておるというようなことも、その当時参謀本部におつた人々の談等を総合して想像できるのであります。
○田中(堯)委員 まず第一にお尋ねしたいことは、終戰直前から終戰時に至るまでの間に、中国人捕虜が所々方々において非常な虐待、さらには虐殺をされたという事実があるようであります。
しかしながら何分にも終戰直前のことでありまして、ことに日本はかの横暴なる陸軍の手によつて自由に政治が行われておつた時代であります。いろいろなこともあつたでありましようが、外部からこれに対して何ら干渉することも関與することもできなかつた。従つて今となつてその調査が非常に困難だそうであります。今まで起りましたいろいろな事件につきましては、はなはだ困難であつたそうであります。
そこで小隊長をしておりましたが、昭和二十年の終戰直前に奉天に部隊は集結を命ぜられて、奉天に集結し、そして奉天で武装解除され、捕虜になつたものであります。それから昭和二十年九月の末に奉天の皇姑屯という駅から私たちの部隊は乗車しました。そうしてカラカンダに着きましたのが昭和二十年、つまり一九四五年の十一月の初めであります。それから私はずつとカラカンダにおりました。正確に言えばカラカンダです。
大体終戰直前に、関東軍の中で南方戰線の方へ移動したような部隊があつたということをお聞きになつたですか、お聞きにならなかつたですか、その点をお聞きしたい。
○竹村委員 四人のうち、どなたか知つておられたら、お教え願いたいのですが、終戰当時満洲におつた関東軍のうちで、終戰直前に南方に転出した部隊が相当ある。しかしそれが通信その他の関係で、満洲におつたことになつておるという部面もあるのでありますが、このことについてお知りになつていたらお答え願いたいと思います。
このことは先程申しましたように、終戰直前に指示を受けまして、これを発表いたしましたのは昭和二十年の八月以後、恐らく年内と申しますか、或いはもう少し早い時期において三万円送金の方法がとられたのだというふうに記憶いたします。
○証人(土田豊君) その点は終戰直前に受けました政府の通牒の中に、調整料は外資金庫に報告をせよという項目があつたように記憶するのですが、外資金庫というのは、これは東京にあたのでございまして、大蔵省の中にありましたのか私ちよつとはつきりいたしませんが、日本の政府の中の機関であります。