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47件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1952-03-25 第13回国会 参議院 内閣委員会 第10号

政府委員(古橋浦四郎君) 終戰直前昭和十九年には六万二百九十三名になつておりましたのですが、二十年の暮になりますとそれが四万二千に減りました。これは当時終戰の直後或る程度仮釈放で出されたためだと思います。それ以前におきましては、大体五万人台が平均でございます。簡單に申上げますると、昭和六年が四万七千、それから昭和七年から昭和十三年までは五万人台でございます。

古橋浦四郎

1952-03-12 第13回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第9号

○石原(幹)政府委員 昭和二十二年末をもつていわゆる正式な集団引揚げは終了したのでありますが、ただいま残存しておるかどうか、神保さんも神様でなければはつきりした数字はわからぬとおつしやつたのでありますが、これは途中から投降をいたしましたり、あるいは終戰直前に山の中に入つて変名しておつたり、こちらでまつたくつかみ得ないものが山をおりて町に出て来たとかどうとかいうことで初めて判明した、こういう人が若干名

石原幹市郎

1952-02-22 第13回国会 参議院 厚生委員会 第9号

なお南方地域からもその後アナタハンの兵士のごとく若干の者が帰国し、現在もフイリツピンのルバング島には、なお三名の日本兵が残存しておる模様でありますが、これら南方地域に残存しておる者は、元軍人、軍閥で、終戰直前或いは直後離隊逃亡して或いは山中に隠れ、或いは変名して現地人になりすまし、潜つてつたものでありまして、これらについては山を降つて町へ出没するとか、或いは留守宅と連絡しない限り日本側においても

石原幹市郎

1952-02-12 第13回国会 参議院 農林委員会 第4号

本県における甘藷の栽培は、九州各県中福岡県と共に最近最も飛躍的に増大して、戰前に比べて大体二倍に達し、昭和二十六年度における作付面積は八千町歩余、收穫高二千七百五十万貫余でありますが、澱粉業先進県である鹿兒島県に見られるような古い歴史はなく、戰時中僅かに一工場を数えるに過ぎなかつたのでありますが、終戰直前農林省の奬励、助成によつて増設せられ、昭和二十六年における澱粉工場工場原料甘藷消化力一千万貫

西山龜七

1951-11-06 第12回国会 参議院 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第11号

政府委員西村熊雄君) さような無法な状態にあるわけではございませんので、台湾、澎湖島が中国軍によつて占領され、南樺太、千島がソ連郡に占領されるにつきましては、終戰直前連合国間の話合いの結果、各担当地区連合国軍隊が入つております。必ずしも事実上の状態ではなくて、話合いの結果成立した状態でございます。

西村熊雄

1951-11-01 第12回国会 衆議院 予算委員会 第11号

特にこの中には、終戰直前ちよつと戰争の仲間入りをしただけで、あの莫大な財産を持ち去つたソビエト、このソビエトのごときは、今私が申し上げる連合国の中に一体入るか入らぬか。これは平和條約の條文によれば、調印をしない限りは、連合国とは言い得ないはずであります。しからば、将来この持ち去つた財産に対する請求権が、日本にあるのかどうか。この財産をどうすべきかという問題が一つ。  

小林進

1951-05-31 第10回国会 参議院 内閣・人事・地方行政・大蔵・農林・水産・運輸・建設・経済安定・予算連合委員会 第1号

併しながら他の委員からも御質問がございました通り、終戰直前までは、終戰後もそうでございましたが、外地に日本全体の目が向けられておつたというような関係があり、終戰直後はその惰性もございまして、遺憾ながら閣議決定の線に沿うた国の拓殖事業費をオーバーに北海道に支出して飛躍的に北海道の開発を行うということができがたかつた次第でございます。

増田甲子七

1951-02-19 第10回国会 衆議院 決算委員会 第9号

またその間終戰直前混乱状態で、戰災の機械台数も不明瞭でございました。また会社側におきましても、やはり同様の状態におきまして、混乱の際で書類を紛失した、あるいはこの機械全国各地に散在いたしておりますし、またこれを把握すべき官庁機構も非常に弱体であつたというようなことで、かように整理が遅れたのでございます。

伊藤繁樹

1950-04-06 第7回国会 衆議院 法務委員会 第21号

しかしながら何分にも終戰直前のことでありまして、ことに日本はかの横暴なる陸軍の手によつて自由に政治が行われておつた時代であります。いろいろなこともあつたでありましようが、外部からこれに対して何ら干渉することも関與することもできなかつた従つて今となつてその調査が非常に困難だそうであります。今まで起りましたいろいろな事件につきましては、はなはだ困難であつたそうであります。

殖田俊吉

1950-04-05 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第19号

そこで小隊長をしておりましたが、昭和二十年の終戰直前奉天部隊は集結を命ぜられて、奉天に集結し、そして奉天で武装解除され、捕虜になつたものであります。それから昭和二十年九月の末に奉天皇姑屯という駅から私たちの部隊は乗車しました。そうしてカラカンダに着きましたのが昭和二十年、つまり一九四五年の十一月の初めであります。それから私はずつとカラカンダにおりました。正確に言えばカラカンダです。

菅季治

1950-03-07 第7回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第10号

竹村委員 四人のうち、どなたか知つておられたら、お教え願いたいのですが、終戰当時満洲におつた関東軍のうちで、終戰直前南方に転出した部隊が相当ある。しかしそれが通信その他の関係で、満洲におつたことになつておるという部面もあるのでありますが、このことについてお知りになつていたらお答え願いたいと思います。

竹村奈良一

1950-02-13 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第11号

○証人(土田豊君) その点は終戰直前に受けました政府の通牒の中に、調整料外資金庫に報告をせよという項目があつたように記憶するのですが、外資金庫というのは、これは東京にあたのでございまして、大蔵省の中にありましたのか私ちよつとはつきりいたしませんが、日本政府の中の機関であります。

土田豊